フィリピン人たちの私達が知らなすぎる真実

cebu

挨拶代わりに嘘をつくフィリピン人たちの私達が知らなすぎる真実

 フィリピンに住んだことのある外国人がまずうんざりするのが、表題のような「すぐわかるようなウソをへいきでついてその場をしのぐ」やりかた。一般人に武士道とか儒教の精神がいきわたっている日本人から見ると薄汚い性格に見えるかもしれません。しかし、人類学的にみると、そうでもないことがわかってきます。

高コンテクスト文化 vs 低コンテクスト文化

 問題の本質に入る前に、「ことば」には大きく分けると「高コンテクストな言語」と「低コンテクストな言語」があります。

 よく「行間を読め」だとか「書き手の真意を汲め」といった表現をされる日本語。俳句や短歌などのように究極のシェイプアップをしても情景が浮かぶといった特異な性格を持っています。

 じつはフィリピンの言葉も高コンテクスト文化圏の言葉なんです。フィリピン人が英語や日本語を話すときに、やけに助詞や主格になる言葉を言わないことに気づく人も多いかと思います。フィリピンの言葉も、文の断片から話し手の意図を聞き手が『汲む』言語なんです。

 ここがまず非常に重要で、私たちは時として「フィリピンの人は重要なことをはっきり言わずに流す。なにか隠してるんじゃないか?」と思ったりしますが、これは、なにかを隠す意図があるのではなく、フィリピン語が日本語と同じ高コンテクスト文化だからです。

 面白いのは、日本語は語順をかなり自由に入れ替えられる言葉で、「私は本を持っている」「本を私は持っている」「私が持っているのは本です」などいろいろなアレンジができ、それぞれに詩的、説明的、感情的な微妙なニュアンスを表現できます。

 しかしフィリピン語はこれができません。もともと助詞や接続詞を極端に端折っているからです。特に動詞の位置が変わってしまうと意味がわからなくなります。

 このことは次章で詳しく書きますが、この「はしょり」のせいで、フィリピン人が省略をあまり許さない欧米の低コンテクストな言語を話すと「訳が分からない」ということにしばしばなってしまうんです。

世界にもある同様の「はしょり」

 日本語でもたまに言いますが、欧米人にいきなり「帰るの?(You go back?)」と、高コンテクスト的に目的語をはしょって聞いても、ほとんどの場合は通じません。”You go back home now?” のように、低コンテクスト的にはっきり言わないと、「え?何を?」と戸惑ってしまうんです。

 余談ですが韓国語や中国語も高コンテクスト文化の言葉です。韓国語が所有格の助詞「の」を使わないのは有名で、逆になんにでも「の」をつける日本人の話す韓国語をわざと「の」「の」「の!」とやって日本人のステレオタイプ的な民族ジョークにしていたりします。

 つまり、英語など欧米の言葉に代表される「低コンテクスト文化の言葉」では、俳句やフィリピン語のように「聞き手が話し手の意図を汲む」という責任がないんです。低コンテクスト文化の言葉では、意図を理解させるのは話し手の責任になります。

 だからこそ、俳句の“意味”や“構造”ではなく、その奥にある「神髄」を欧米人に伝えるのは本当に難しいんです。

 まあ、このあたりが、僕がいつも言ってる「英語がわからなかったときにいちいち謝るな。分からせられないお前が悪い、くらいの気持ちでいけ!」っていう理由なんです。

動詞的言語 vs 名詞的言語

 日本語や英語はたとえば「私は本を持っている」「I have a book」のように主語に続いて「本」という目的語にあたる名詞がフォーカスされ、「誰が」「何を」が重要になります。これが名詞的言語の特徴です。

 ところがフィリピン語の場合はまったく違い、「May libro ako(直訳:本がある、私は)」のように、動詞が先に来て、名詞や主語は後から添える形になります。つまり、行為や状態が文の中心にあり、それを補足する形で登場人物や物が説明されるのです。

 このように、フィリピン語は動詞活用が非常に発達しており、「動作」を中心に文が構築されます。したがって、「誰が」「何を」よりも「何をしたか」が中心に置かれます。

 日本語や英語のように「主語(誰が)」と「目的語(何を)」が強調される名詞的言語では、行為者の責任や真偽の所在が重要視されやすい。つまり、「誰が言ったのか」「それは本当かどうか」が判断基準になります。

 一方、フィリピン語のような動詞中心の言語では、焦点は「誰が」ではなく「どんな行為がなされたか」「どう場が動いたか」にあります。この構造は、人々の思考にも「行為そのもの」「場の流れ」への関心を強めます。

 このことから、フィリピン人の「その場をしのぐウソ」は、実は「場の調和を保つための一時的な言語的行為(social smoothing)」である場合が多いのです。

たとえば:

「明日来られる?」と聞かれて、実際は来られないが「Yes」と答える。

 → 相手をがっかりさせないように「行為(Yesと言う)」を優先している。

「宿題やった?」に「Yes」と言う。

 → 今の対話の空気を壊さないことが目的で、真偽より関係性の円滑化を重視。

つまり、

“嘘” ではなく “調整的発話”。

「正確な情報伝達」よりも「関係をスムーズに維持すること」が最も重要視されているのです。

日本語も高コンテクスト文化ですが、構文的には名詞中心。そのため「言葉=約束」「発話=責任」という感覚が根強い。このため、フィリピン人の“行為としての発話”が、「嘘」や「ごまかし」として受け取られてしまうのです。

モノクロニック vs ポリクロニック

 日本人とフィリピン人の決定的な違いは、「モノクロニック」と「ポリクロニック」という時間の捉え方の違いで説明できます。

 モノクロニック(monochronic)とは、欧米や日本などに見られる「時間を直線的にとらえる文化」です。この考え方では、時間は一本の流れのように理解され、プロジェクトやスケジュールが順序立てて進むことが理想とされます。ガントチャートのように「ひとつのタスクをいつまでに終えるか」「次はいつ着手するか」といった時系列的な管理が重視されるのです。

 一方、ポリクロニック(polychronic)とは、同じ時間に複数の出来事が重なって進むことを自然に受け入れる文化を指します。時間は“流れるもの”ではなく、“めぐるもの”。その場その場の状況や人間関係によって、優先順位が変わる柔軟な時間感覚を持っています。

 文化人類学者エドワード・ホールは、アラスカの缶詰工場で働き始めたエスキモー(今日ではイヌイットやイヌピアット/ユピックと呼ばれることが多いです)のエピソードを紹介しています。

 彼らは、朝決まった時間に出勤し、チャイムとともに作業を始め、またチャイムで終えるという仕事のやり方を見て、「何かの冗談か?」と笑ったそうです。彼らの文化では、「引き潮の日はこの仕事」「満ち潮の日は別の仕事」といったように、自然のリズムに合わせて日々の仕事を決めるのが当たり前だったのです。

 筆者もかつてサイパンを訪れた際、現地の人から「気象局?そんなもんない」、「朝雨が降っていたらその日は仕事をしない」と聞いて驚いたことがありますが、彼らにとって、天候や環境は“仕事の邪魔をするもの”ではなく、“生活のリズムを決めるもの”だったのです。

 日比の比較に現れる「時間の文化」

 このモノクロニック/ポリクロニックの違いは、日本人とフィリピン人の仕事観や約束観にもそのまま表れます。

 日本では「時間を守る=信頼の証」であり、約束の正確さが人間関係の基盤です。約束を破ることは「相手への不誠実」とみなされ、社会的信用にも関わります。

 一方フィリピンでは、「その場の流れ」や「相手の都合」に合わせて予定が変わることはごく自然なこと。約束よりも“関係を壊さないこと”が優先されます。

 だからこそ、日本人には「フィリピン人は約束を軽んじている」と映り、フィリピン人から見ると「日本人は融通が利かない」と感じられるのです。

 こうした文化の違いは、制度や日常の場面にもはっきり表れます。

 たとえば日本の法廷では、ひとつの事件はひとつの法廷で審理され、厳密な手順で進行します。

 ところがフィリピンの法廷では、さまざまな罪状や案件を抱えた当事者たちが同じ審理室に集まり、判事がその場で次々と処理していくことも珍しくありません。

 まるで市場のような光景に、日本人が面食らうことも多いようです。

 しかし、その背後には「同時多発的な出来事を自然にさばく」ポリクロニック的時間感覚が根底にあるのです。

 そして、“嘘”のように見えるものの正体

 だからこそ、“嘘をつく”ように見えるフィリピン人の発言も、実は“その場の流れを合わせる”ためのポリクロニック的行動なのです。

 彼らにとって、それは「矛盾」ではなく、「場を保つための必要なテクニック」。

 つまり、“嘘”ではなく、“調和を守るための言葉”だといえると思います。

嘘じゃなくて、別の誠実さ。

 ここまで読んできて、分かったかと思いますが、フィリピン人が“嘘をつくように見える”のは、性格の問題じゃなくて、文化の中で「言葉」や「時間」や「行為」をどう扱うか——その“ルールの違い”なんですね。

 日本語は名詞的で、「誰が何をしたか」をはっきりさせたがるから、言葉の正確さが誠実さの証になる。

 一方でフィリピン語は動詞的で、「何が起こったか」「どう場が動いたか」を大事にするため、真実よりも“空気を壊さない”ほうが大切なんですね。

 さらに、時間の感覚も日比でまったく違います。

 日本人はモノクロニックに、「計画通り」「予定通り」を重視するけれど、フィリピン人はポリクロニックに、「その場そのときの流れ」に身を任せる。だから約束が変わっても、それは「不誠実」ではなく「相手に合わせて動く誠実さ」なんですね。

 「うそを許す文化」は本当に不誠実なの?

 ここまで読んで、「でも、嘘をついていたら仕事にならない。そんな文化だから汚職が多いんじゃないか」と思う人もいるかもしれません。

 そう考えるのは日本人としては当然で、日本では「正確さ」や「契約の履行」が社会の信頼の根底にあり、嘘やごまかしは「誠実ではない」と考えられていると思います。

 けれど、この前提そのものが、すでにモノクロニック的・名詞的・低コンテクスト的な価値観に立っているというか、つまり、「個人が責任を負う」「発言が契約である」という構造が前提になっているのです。

 一方、フィリピン社会においては、「人と人との関係」こそが社会の単位です。

 発言は約束というよりも、関係を保つための“調整行為”であり、約束よりもまず関係の持続そのものが善とされる。だからこそ、「嘘」は罪ではなく、関係を壊さないための配慮として受け取られるのです。

 もちろん、それが政治的腐敗や構造的不正に結びついてしまうこともあるにはあります。

 しかしそれを単に「嘘が多いから悪い」と断じてしまうのは、

 「正確であること=誠実」「曖昧さ=不誠実」という一方的な道徳観を他文化に押しつけることになります。

ルールを守るということ

 たとえば、欧米や日本では“ルールを守る”ことが信頼の根拠になりますが、フィリピンでは“相手を助ける”“場の和を乱さない”ことが信頼の根拠になる。

 どちらも誠実でありながら、その定義が違うだけです。

 文化人類学者のルース・ベネディクトが言うように、

 「他者の行動を自分の道徳基準で裁くことは、文化の理解を妨げる」。

 そしてマクルーハンが予見した“地球村”では、

 「異なる誠実さが同じ空間でぶつかり合うことこそが、新しい人間社会の課題」だと言っています。

 つまり——

 「嘘はいけない」という発想もまた、文化的な構造の一部にすぎない。

 それを絶対視した瞬間に、私たちは相手の文化を理解する回路を閉ざしてしまうのじゃないでしょうか。

まとめ

 ここまで読んでいただけたなら、「スペイン統治期に『正直に言うと首を跳ねられたから、フィリピン人はウソでしのぐようになった』」という話が、根も葉もない与太話だと分かるはずです。

 それと同じことですが、「フィリピン人だからレベルが低い」とか、「日本人のほうが能力が高い」などというのも日本人の勝手な思い上がりです。

 言ったことにプライドをかけて、真っ向からぶつかり、1つのことを積み上げていくのが、欧米や日本の文化。

 争いを好まず、たとえウソでもいいから対立を避け、同時進行的にそして臨機応変にその場の状況を処理していくフィリピンの文化。

 “嘘”に見えるものの中に、

 じつは“相手を思いやる文化”が隠れている。

——そう気づくと、少しだけ世界の見え方が変わるかもしれません。

参考文献

エドワード・ホール「文化を超えて」
マーシャル・マクルーハン「グーテンベルクの銀河系」
ホルガー・ペデルセン「言語学史」
大上正直「フィリピノ語文法入門」
ルース・ベネディクト「レイシズム」
クロード・レヴィ=ストロース「構造人類学」

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